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生きる 〜 苦しみや哀しみと闘う人々へ 〜 ■ 魂 〜 Soul ■ | ||
| ▼ 苦しみや哀しみと闘うのは、決してあなた独りじゃない ▼ |
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苦しみや哀しみの心に、何か違いがあるのだろうか。 今僕は白血病と闘い、それに苦しみ、哀しみ続けてきた。 今誰かは、何かと闘い、それに苦しみ、それに哀しみ続けてきた。 果たして、その苦しみや哀しみの心に、何か違いがあるのだろうか。 僕が今までの人生の中で見つけだした答えとしては、それは、恐らく何も違わないということ。 苦しみや哀しみの“心”には、何等の違いもない。 だったら、病気の苦しみと哀しみだけに、白血病の苦しみと哀しみだけに僕は捉われていてよいのだろうか。 僕は今まで、白血病患者の苦しみや哀しみだけに捉われてきたのではないだろうか。そうでなくても、同じような難病の方々の苦しみや哀しみに、それだけに捉われてきたのではないだろうか。 苦しみと哀しみの心には、何等の“違い”も存在しないはず――。 例えば他の難病の方々。自殺願望に苦しみ悲しむ方々。苛めに苦しみ悲しむ方々。孤独に苦しみ悲しむ方々。精神的圧迫に苦しみ悲しむ方々。そういった方々の苦しみや哀しみの心と、今のこの僕の苦しみと哀しみは、いったい何の違いがあるのだろうか。 それは恐らく、多分、何も違わない――。 今の僕の苦しみと哀しみは、たまたま白血病という容をとっているに過ぎない――。 そうすれば、僕が白血病患者のみの苦しみと哀しみに捉われるのは、“本当”を見誤っているのではないか。 苦しみや哀しみの“心”には何等違いがないのだと、僕は僕自身の中で、そう“答え”を見出せた。 では、僕に、いったい何ができるのであろうか。 では、僕は、いったい何をすべきなのであろうか。 今この瞬間の僕のこの試みが、僕にとって、それに対してのひとつの回答となりますことを願って。 |
▼ ギジン、即ちニセヒトであるということ ▼ |
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僕は(当 Web サイトでは)“真実”であるとか“本当”であるとかの、本来は決して軽々しく使うべきではない言葉を要所々々で使っています。それは、当然深い自戒の念を持って使われなければなりません。そうでなければ、それらの言葉は紛れもない“偽”になります。 僕は、自戒の念を込めて自らは“ギジン”でありたいと想っています。“ギジン”、即ち“擬人”とも“偽人”とも書くことができる言葉です。 この言葉の通り、僕を疑ってください。僕のいうことを、疑ってかかってください。 僕が“偽”か“真”かを判断するのは、“あなた”です。 そもそも、簡単に“真実”であるとか“本当”であるとかの発言をする人間のを簡単に信じてはいけない。そういった類の発言の殆ど多くは大変な“思い上がり”か、大変な“傲慢”である場合が決して少なくありません。 “人”は、あくまでも人です。決して、“人”という領域を超えることは出来ないのです。 時に妬み。時に羨み。時に恨み。時に怒る。これは本の一例ですが、それが“人”でしょう――。 自分自身に“常に危うさを感じ”得ない人間は、必ず、それゆえの失態に陥る。これは、僕の信念の中に根付いた言葉です。つまりそれは、自らに対し“思い上がり”、自らに対し“傲慢”であるということ。 僕を疑え。 僕を、疑ってかかってください。 僕は、“ギジン”でありたい。 だから、僕は“偽者”かもしれない――。 僕の発言の正邪などは測りようがありません。あえて言うなら、あなたが僕を“誤り”といえば、僕はあなたの中において“誤り”になってしまう。そして僕にはそのような念を抱かれるに充分な理由があったのでしょう。そうなれば、確かに僕は、誤りになります。 この場では、僕はただ自身の見つけ得たひとつの“想い”を述べていくことしかできません。あくまでも主体は“あなた”であり、僕の考え方や発言をどう判断するかどう受け止めるかは、どう咀嚼してあなたの中に取り込むかはそれはあなた“ご自身”の“想い”次第です。総ては、あなたに委ねられていることなのです。 僕を疑ってください。 僕を、簡単に信じてしまうことがあってはなりません。 僕を疑ってください。 自分自身に常に危うさを感じる 僕は、そうでありたい。 だから自身は、“ギジン”でありたい。 あなたが、あなたご自身のひとつの応えを見つけ出すための糧を提供することができるなら。そう、心から願います。しかし、それが大いなる思い上がりであることもまた承知の上です。それが、大いなるお節介であることも承知の上です。ただ、僕は僕の想いを“あなたに”届けたい。 もしも僕の“想い”が、ほんの僅かながらでもあなたの心の糧になることが出来るのなら――。 あなたにとって“何か”の心の糧になり得る。 もしも、そうなることが出来たなら。 それが、僕の想いです。 |
▼ “生き方”の問題、それは、命をどう“使う”か ▼ |
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生きる。 即ち、どう生きるか。 これは、私たち命あるものに永遠に突きつけられる、生命にとって普遍的なテーマです。では、私たちはいったいどう生きればよいのでしょうか。そもそも、“生きる”とは何なのでしょうか。 僕は、僕のこの人生を賭して、いったい命をどう生きるべきなのでしょうか。では、“どう生きるか”とは、その根底にある性質と想いとはいったい何なのでしょうか。 僕は考えます。 人生を、どう生きるべきなのか――。 そして自分なりの応えを見つけ出しました。 どう生きるかという性質の根底にあるものは、人生を、どう“使う”か――。 僕はこの人生そのものを懸けて、人生を、命を、“どう使いたい”のであるか――。 人生は消費物である これが、僕の見つけだした応え。 応えとは、“存在”の数だけ存在するというのは確かでしょう。だからもちろん、僕はこのことだけが“本当の応え”であると盲目してるわけではありません。しかし、これは紛れもなく“本当のこと”であると自身の中で確信します。 そして僕は、今の自分の使い方、生き方を選びました。 この自身においての応えを僕がこれから紡いでいけるなら、僕にとってそれ以上の幸福はないと、心の芯に強く想います。 |
▼ “過ぎる”から“使う”へ 〜 受動から能動への転換 ▼ |
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人生は流れゆくもの。 もしくは、“過ぎ去る”もの。 果たして、本当にそうなのでしょうか。 人生は“使う”ものである。 即ち、生きることに対し“受動”から“能動”への転換を図る。 僕は、そんな理念を抱きます。 だから僕は、人生を、このように使います。 今みなさんがご自身の目で、耳で、感覚で、感じ確かめられている通りです。 |
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