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生きる 〜 苦しみや哀しみと闘う人々へ 〜

■ 心の長旅 〜 Mind Journey ■



※文中の名称および人名称は仮称です

第一節 始発点

 1998年12月02日。人生の転機。
 ただそれには、余りにも早過ぎた。

 1ヶ月以上も原因不明の熱が続いていた。昼間はなんということもないのだが夜になれば必ずといっていいほど発熱した。たいがい夜になると熱は39.0部を越えたが、身体はそれほど辛いということもなかった。ただ、どうしようもなく怠かったというのを憶えている。学校へ登る坂を歩くときでさえ身体が思うように動かなかった。今から振り返れば、そのときすでに白血病は発症していたからだ。

 長い間原因の分からない発熱が続いたので、掛かり付けの医師が血液検査をしようといってきた。すでに風邪か何かの症状ということで2,3週間通院していた。後から聞いた話だが、前にも僕とよく似た症状の患者を何人か診たことがあるそうだった。そしてその患者はいずれも血液疾患であったらしい。しばらく後に「まさかと思って調べてみた」と両親が医師から告げられたらしい。。僕はその話を両親よりずっと後になってから聞いた。  今更ながらに思う。この病気はできるだけ早期の発見が最初の局面において重要な意味をなしてくる。それはたいがいどの病気についても同じだとも思う。僕の場合はわりあい早期に発見された。掛かり付けであったF先生に心から感謝する。発見が遅れていれば今頃こうして生きてはいなかったことだろう。それを考えるととても気が重くなる。

 F医院での採血の結果がでた直後に緊急入院をするように求められた。たしか、採血をした翌日か翌々日の出来事であったと思う。その知らせを両親から聴いた僕はとても動揺したのを憶えている。最初のうちはあまり実感がわかず、それは時と共に次第に僕にのしかかってきた。徐々に実感がわいてくるにつれて得体の知れない不安感も募った。今までは自分はまったくといっていいほど入院経験がなかった。たいした怪我も病気も骨折すらしたことがなかった。何より、採血の直後に理由も聞かされず緊急入院を告げられたことが、僕の不安と得体の知れないものへの恐怖心を募らせた。しばらくして、気分を落ち着かせてから当時親しかった友人だけに電話をかけた。最初のうちは冷静を装って、自分の中でも何とか不安と恐怖を押さえようとしていた。しかしどうしても言い知れぬ不安感は抑えきれなかった。友人としばらく話し込んでいるうちにどうしても涙が零れてきた。家族に隠れて泣いた。自分はこれからいったいどうなるのだろうかと。そんなにすぐに緊急入院が必要な病とはいったい何なのだろうかと。自分は妙な病だったらどうすればいいのか。そのとき一瞬脳裏に浮かんだ予感は不幸なことに現実のものとなる。言い知れぬ不安と得体の知れないものへの恐怖だけが、ただ、広がっていった。

 不安の中で夜が明けた。当日のうちにも緊急入院をしなければならない。家族の前では平静を振る舞っていた。できるだけ家族によけいな不安を与えたくなかったし、また僕も強がっていた。不安感が消えるはずもない。けれどもそのうち少し楽観的に考えられるようになっていた。「まさかそんなに妙な病でもないだろう」という思いが徐々に自分の中で広がっていった。「今まで盲腸すらしたことがない」といった類の根拠のない自信や、持ち合わせた気性が何となくそんな心境にさせていた。もともと僕は前向きな方だった。必要限の荷物を車に積み込み、両親に伴われ入院先の病院へと急いだ。

 車中では不安と覚悟の気持ちが入り交じっていた。僕は車の後部座席で毛布にくるまって寝転がっていた。見上げる青空の爽快さが気持ちよかった。高速の脇に見える木々には綺麗な花が咲いていた。しばらく山陽道高速をひた走り高速を降りた。そこから30分かそこら走ったと思う。目的地のM国立療養所に到着した。あのときの様子は今でも映像として脳裏に浮かんでくる。思えばあれが僕のこの何年にもわたる闘病の最初の一歩だった。病院に着いた頃には妙な不安感は消えていた。もうこうなれば腹を括るしかないだろうと、ある種僕は開き直れていた。

 国立療養所らしく病院の建物は大分くたびれていた。施設内の明かりも雰囲気も暗い。受付でここに紹介されてやってきたことを告げるとしばらく待つようにいわれる。1回の待ち受けで流れるテレビを聞き流していた。とてもテレビを見る気分になどなれなかった。目の前のいすに座る患者らしきおじいさんが僕の目に弱々しく映った。病院の照明の暗さもあって、その光景は僕を妙な心地にさせた。あまり健康的とはいえず明るいともいえない、どちらかといえば不安げな心地だ。これが病院の独特の雰囲気なのかと、そのとき初めて入院病棟独特の感覚を感じた。

 しばらく待った後、看護婦に案内され病棟にきていた。そこは薄暗く施設も大夫くたびれていた。廊下を行き交う人も少なくどんよりとした感じを受けた。僕が入院する病室に案内された。そこは既に先客が入院している2人部屋だった。そのときは気にも留めなかったが先客には頭髪がなかった。先客に軽く挨拶をして病室に入った。これでやっと一段落したと僕は逆に安心していた。荷物を置きベットに座ると割合軽い気持ちになった。その頃には妙な病気であったらという不安はどこかへ消えてしまっていた。病室に入ってしばらくしたら検査があるからと呼び出された。

 呼び出された検査室でなにやら説明を受け台の上に上半身裸で寝かされた。骨髄に直接針を差し込んで骨髄液を抜くとのことだった。事前に激しい痛みを伴うとは説明されていた。胸骨に麻酔を受け骨に穴を空けるドリルのような針を差し込む。そこから骨髄液を注射器で吸い出すのだ。だが、あれだけの激痛を伴うとはまるで想像していなかった。身体の中の骨の髄液をじわりじわりと吸い出される独特の感覚を伴う激痛だ。僕は生まれて初めて叫びをこらえるために心底唇を噛みしめた。そこはかとなく唇がちぎれない程度にではある。それも一通り終わって一気に安堵感が押し寄せてきた。だが、検査は2本採取すると直後に聞かされた。僕はあの激しい激痛をもう一度耐えることになった。

 検査を終えて病室に帰ってきた。しばらくして付き添っていた両親だけが医師から呼び出された。僕も一緒に医師の話を聞きたいといったが許されなかった。しばらくして両親が戻ってきた。そのときは特に気にも留めなかったが、今にして思えばそのときの両親の様子は不安と同様に包まれていたように思う。僕は何の話をしたのだと両親に強く聞いたが両親は何も話さなかった。ここで治療すれば大丈夫だからとただそれだけ聞かされた。すぐにでも治療が必要な状況であるらしかった。さっそく明日から治療すると告げられた。昨日からの急な展開に戸惑いはしたが、その頃には既に腹を括っていた僕は割合すんなり受け止められた。まさか、自分の病気が白血病という血液のガンであるとは夢にも思わずに。

 しばらく病室で両親が付き添い、一通りの荷物の整理を終えた後両親は帰宅の途についた。別れ際に母が何度も何度も「大丈夫か大丈夫か」と僕に聞いてきた。そのときの母の様子は不安と僕を気遣う姿で一色だった。父は割合あっさりしていた。二言三言言葉を交わすと早く帰ろうと言い出し母を急かした。後で聞いた話によると、父は僕のことを心配してはいたが、こうなった以上医者に任せるしかないと腹を括っていたらしい。しかしそのときの僕にはただ淡泊な父の姿しか目に映らなかった。若い看護婦さんと話をするときのにやついた父の目が気に入らなかった。それほど動揺した姿を見せず、またそんな様子の父だから、そのとき父が僕のことを心配しているとはそれほど思えなかった。そのときの僕の父に対する評価はとても低かった。父のことは愛してはいたが僕は父が家族にしてきたことは大嫌いだった。僕は幼い頃からほとんど父性というものを感じたことがなかった。あるいは父はそのつもりでも、僕たち子供にはとてもそうは受け取れなかったのかもしれない。できることなら父のことを憎みたかった。今まで母は父によって酷い悲しみを受けてきた。それは僕と二人の兄弟も同じだ。その父の行為は僕が闘病の最中にあっても家族への致命的な裏切りとなって表れた。そのことが決めてとなって今となっては僕の父に対する評価はない。だが、それでも父への愛がないといえば嘘になる。結局憎めないでいる。それがまた僕を苦しめた。この父の行為は闘病の中にあって僕をさらに苦しめ続けることになる。

 両親が帰った後僕はしばらくCDを聞いていた。入院に際して持ってきていた「さだまさし」のニューアルバムだ。CDは入院の数日前に買ったものだった。しばらくCDを聞きながら寝転がっていた。その頃には不安といえるものはずいぶん消え去っていた。そのうちに隣のベットに入院していたおじさんが話しかけてきた。年齢は50歳前後であったと思う。前述したようにそのおじさんには頭髪がなかったが、僕はそのおじさんといる間最後までその理由が分からないでいた。

 続・以降



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