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苦しみや哀しみと闘う人々へ 〜 生きる ■ 発行者紹介 〜 KURUKANA ■ | ||
| ▼ 発行者紹介 ▼ | |
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■ 姓 名: 花田 久成 (はなだ ひさなり) ■ 生 年: 1982年(昭和57年) ■ 年 齢: 20歳 ■ 略 歴: 1998年12月白血病発症。医師から白血病であるとの告知を受ける。当時16歳。以降化学療法(抗癌剤)による治療を続ける。一度完寛状態(ほぼ治った状態)にまで回復。2000年05月1度目の白血病の再発確認。再び抗癌剤治療を開始。骨髄移植以外では助からないと医師から告知。以降骨髄液提供者が現れるのを待ちながら治療を続ける。同年07月、再び完寛状態を迎える。同年08月、提供者候補がひとりも現れなかったと骨髄移植推進財団からの通告。それでも提供者が現れることに最後の希望を託し治療を続ける。2001年05月02度目の再発確認。同年12月初頭、抗癌剤治療の副作用により心臓の状態を悪化させ、すでに骨髄移植を受けられる状態でないことを医師から告知される。 |
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■ KURUKANA 写真館(写真で自己紹介) ■ 闘病の詳細 ■ 趣味で撮った写真 ■ 趣 味: さだまさし(音楽鑑賞・人生勉強) / 音楽鑑賞(小田和正・谷村新司 等) / Computer / 歌唱 | |
| ■ 最近の病状 ■ | |
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| ■ 現在までの病歴(略歴) ■ |
■ 1998年12月01日 かかり付けの開業医にて血液検査をする。以前から原因不明の体調不良(発熱等)が続いていた。 ■ 同月02日 検査の結果血液疾患であることが判明する。緊急入院。岡山南部の国立療養所(サナトリウム)に入院。発症時16歳と9ヶ月であった。 ■ 同月03日 入院の翌日に家族の都合により緊急転院。広島市内の総合病院に入院する。入院当日より点滴による抗癌剤治療を始める。担当の医師から約15ヶ月間の治療期間が必要であると告げられる。治療開始から数日後、自身が白血病であることを医師に問い、そう告げられる(告知)。 ■ 1999年01月初頭 入院して最初の退院。以後1ヶ月に1度くらいの割合で抗癌剤治療(化学療法)を行い、その副作用である免疫力の低下による入院を繰り返していく。抗癌剤治療には激しい副作用が伴い、その致命的ともいえる副作用が免疫力の低下である。これをそのまま放置しておけば、感染症などにより確実に死に至る。 ■ 同年03月頃 この頃から抗癌剤治療(化学療法)をしながらの独り暮らしを始める。17回目の誕生日を無菌室で過ごし、それから少し経った頃であった。 ■ 同年05月頃 この頃に初めて病院仲間の死を味わう。知人の死というものを始めて味わい、最初は実感がわかなかった。しかし、後になってそれを実感する。 ■ 以後毎月1回のペースで抗癌剤治療(化学療法)と入退院を繰り返す。ここでは詳細は省く。この間に第一完寛期(骨髄中の白血病細胞が5%未満)を向える。 ■ 2000年03月 約15ヶ月間にも及んだ治療期間も終了する。しかし、主治医の先生からの治療終了の認定はなく、経過観察が告げられる。18歳の誕生日を、実家から病院へ通院する電車の中で山桜を見ながら過ごした ■ 同年04月 発病以前に通っていた高校に復学する。 ■ 同年05月中頃 白血病の再発を確認。高校は再休学。白血病は一度再発してしまえばもう化学療法(抗癌剤)では治らない。現在の所、唯一の選択肢とされているのが骨髄移植。その唯一の選択肢である骨髄移植に最後の望みをかけ、骨髄移植までの期間を稼ぎ出すために再び化学療法による治療を開始する(時間稼ぎ)。この段階では骨髄移植という方法を望めたため、まだ“治療”と呼ぶことができた。 ■ 同年07月中旬 第2期完寛期(骨髄中の白血病細胞が5%未満)を向える。 ■ 2000年08月中旬 該当する骨髄提供者候補が独りも見つからないと、骨髄移植推進財団からの連絡を受ける。事実上の死刑宣告。この時点から“治療”は“延命”へと変った。骨髄ドナーが現れることだけを信じて、移植までの時間稼ぎをひたすらに続けるのだ。 ■ 同年09月以降 今後、将来的に骨髄提供者が現れることを信じて化学療法による延命策(時間稼ぎ)をとる。以後も、以前と同じように毎月1回のペースで入退院を繰り返す。 ■ 2001年02月末 19回目の誕生日を病院の外来にて迎える。この日は忘れがたい日になった。関係された方々に深い感謝の念を抱く。 ■ 同年05月 2度目の再発確認。つまりは再々発。病気は待ってはくれなかった。それと同時に心臓の機能低下(心不全)も発見される。いよいよ死の危険性が具体性を帯びてくる。 ■ 同年06月末 再々発後最初の入院。その後約1月の入院で生きて退院できた。感謝。 ■ 同年10月初頭 極めて重要な局面での入院。白血球2万越、末梢血(静脈を流れる血液)中の癌細胞90%。ここで癌細胞を劇的に減らすことができなければ明日はない。つまりは、そのまま死んでしまうということ。 ■ 同年11月初頭 抹消血中の癌細胞の割合が5%未満まで下がった。入院当初の90%以上から考えると大きな成果。相変わらず悪運に恵まれる。 ■ 同年11月19日 この度も何とか生きて退院できた。入院時に『退院できるかどうか解らない』と医師から告げられていたので、これは闘争にひとまず打ち勝ったといっていい。『退院できるかどうか解らない』ということは、つまりは『生きて帰れるかどうか解らない』ということであったのだ。 ■ 同年12月07日 骨髄移植を受ける意味がないことを医師に告知される。骨髄移植は決して安易な方法ではなく、高い死のリスクを伴う。それゆえ、骨髄移植を受ければ自殺するようなものだとのこと。 ■ 2002年01月以降 白血球の異常な上昇と共に入退院と抗癌剤治療を繰り返す。 ■ 2002年02月27日 二十歳の誕生日を無菌室で迎える。平凡な一日。これ以降も抗ガン剤治療と入退院を繰り返す。 |
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